6. 魂は何故物質の世界にいるのか

この物質界にいるすべての生きとし生けるものすべては,バガヴァーンの子供たちです.
mamaivāṁśo jīva-loke jīva-bhūtaḥ sanātanaḥ
manaḥ-ṣaṣṭhānīndriyāṇi prakṛti-sthāni karṣati
真に、肉体化された魂(肉体に覆われた魂)は私(バガヴァーン)の極微少のエネルギーであり永遠だ。物質エネルギーの影響下にいる肉体化された魂は心と6つの感覚器官に突き動かされる。(バガヴァッド・ギーター  15.7)

物質世界にいる魂達は皆、物欲・性欲といった儚い物質的な欲望の虜になっています。これはちょうど,砂漠にいる喉の渇きに苦しむ旅人が、水のように見える蜃気楼を追って必死に歩き回っている様に似ています。この物質界には、私達魂が求めている真の幸福や喜びはありません。砂漠の蜃気楼のように、追っても追っても手に入れられません。一時的な物質世界には実体はありません。陰のようなものです。真の幸福や喜びである純粋な愛は、バガヴァーンにあります。

私達が今いる物質の世界とは異なる、もう一つの別の世界,ブラフマンの世界・精神界が存在します。
この物質界は, mṛtyur loka-bhayaṅkaraḥ死がある世界です(バガヴァッド・プラーナ 3.12.25)
従ってヴェーダでは、「生老病死が渦巻くこの物質の世界から出なさい」と説いています。これは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の聖書や、仏教の教典の中でも、私たちが現在いる世界を超えた世界、「神の国」或いは、涅槃 (ニルヴァーナ)という状態を達成することを説いています。

どんなに苦労して獲得した権力も富みもすべて死と共に無くなってしまいます.
その代わりに,これらを獲得するために犯した罪で地獄で苦しみ,そして他者を苦しめたことを追体験するカルマの反動で苦しむことになります.私たちは永遠に実在する魂ですが、常に変化する物質の肉体を纏うことで、生老病死という変化に苦しむことになります。その他にも、日照りや大雨や地震といった大自然が与える苦しみ、他の人間や生命体が与える苦しみ、自分の心や体が苦しみなど私たちには様々な苦しみがやってきます。
従ってこのような世界から出ることが唯一の解決方法です。この世界は,私たち魂が本来いるべき世界ではないのです.

この物質の世界と正反対の反物質の世界・ブラフマンの世界(精神世界)に、絶対者であるバガヴァーンがいらっしゃいます。ここが私達魂の永遠の故郷です。
na tad bhāsayate sūryo na śaśāṅko na pāvakaḥ
yad gatvā na nivartante tad dhāma paramaṁ mama
私(バガヴァーン)の至上の住まい・精神界は、(未顕現のブラフマジョーティ:ブラフマンの光輝で満ちている為に)、太陽や月や火によって照らされる事は無い。そこに達した者は、決して物質界に戻ることはない。(バガヴァッド・ギーター 15.6)

私たち魂は皆、父であるバガヴァーンの子供たちです。しかし,私たちが現在いる物質界ではバガヴァーンを見ることができません.そして自分自身である魂・ブラフマンでさえ見ることができません.何故なら,私たちは自分のこともバガヴァーンのことも忘れているからです.
では何故忘れたのでしょう?

バガヴァーンが直接統治する精神界は、バガヴァーンを中心としてすべての魂たちがバガヴァーンと愛で調和しています.精神界ではバガヴァーンは,人間社会の独裁者のように魂たちを力尽くで支配するのではなく, すべての魂の自由意志を尊重し,すべての子供たちの幸福を願う父として無償の愛を注いでいます.
ちょうど健全な親と子供たちが互いに愛し合い慈しみ合い生活を楽しむように,バガヴァーンはすべての子供たちである魂を平等に愛し,バガヴァーンを中心とした様々な娯楽を通して子供たちと無限な愛の交換を楽しんでいます.私たち魂の本当の生活の場は,ここにあるのです.

しかし中には,「自分がバガヴァーンのような世界の中心的存在になりたい, 自分の自己中心的な欲望を満たそうとすることで自分がもっと幸福になれる」と望んだ魂たちが現われます.
バガヴァーンのこのような魂の望みを力尽くで阻止しようとはしません.この望みを満たしてあげようと、バガヴァーンは物質界を創造なさいました.
この物質界は,「自分がバガヴァーンのような存在になろうとすることはどうゆうことなのか」を実際に体験するシュミレーションの世界なのです.

そして自分が中心になるためには,バガヴァーンのことも,本当の自分のことも忘れなければなりません.ですから,バガヴァーンが,私たちの物質的欲望を叶えさせる為に忘れさせました.
sarvasya cāhaṁ hṛdi sanniviṣṭo mattaḥ smṛtir jñānam apohanaṁ ca
私(バガヴァーン)はすべての生命体の心臓に居る。私から、記憶・智識・忘却が生ずる。(バガヴァッド・ギーター  15.15)

宇宙中には無数の肉体がありますが,それらはすべて乗り物・マシーンyantraです.これらのマシーンの動力源・心臓は,主(バガヴァーン)がいることで動いています.
自分が中心で生きたいという望みを叶える場所が物質界です.この欲望の為に私たち魂は受肉し、肉体を纏うことで自分自身を肉体と同一視するようになって文字通り自分を見失い、自分を生み出したバガヴァーンの存在も見えなくなりました.こうしてバガヴァーンとの関係も忘れて,自分の欲望を完全解放させることができるようになったわけです.これを物質の病と言います。

こうして物質界に堕ちた私たちは,過去生から現在に至るまで様々な活動をしてきました.けれども自分が中心になろうとする魂が溢れているこの世界では平和はありません.常に支配を巡って争いあうために心が安まることはありません.平安がなれば,本当に幸福を味わうことはできません.けれども,このような苦しみがあっても,私たちは自分の肉体の感覚満足や支配欲や所有欲といった心の満足の為にこの世界に留まり続けています.私たちの物質生存は、自己偏愛による自己中心的な欲望によるものです。

yayā sammohito jīva ātmānaṁ tri-guṇātmakam
paro ’pi manute ’narthaṁ tat-kṛtaṁ cābhipadyate
物質エネルギーに影響され、魂は物質の3様式に超越しているにも関わらず、自分自身を物質の産物と思い込み、惨めな物質的反動で苦しむ。(バガヴァッド・プラーナ 1.7.5)

物質界で物質の肉体を纏った魂の活動には,すべて反動を伴います.この物質世界で私たちは自由に活動できますが,私たちは自分中心の活動の責任をとるようにできているのです.これをカルマの法則と言います.これは後述致します.
つまり,私たちにやってくる苦しみの多くは,自分の活動の反動なのです.しかし,精神的智識に無知の為に, 殆どの人々はこのことを知りません.そして自分を肉体と同一視している為に, 自分の感覚器官の疼きや心の渇望といった自分中心の欲望を満たそうとします.
しかし,これらの満足は一時なものです.それでも一時の満足の為に,宇宙のルール・ダルマを破り,その反動で何度も何度も苦しい目に遭っても,それでも欲望を満たすことを諦めません。
しかしやがて, 自分ではもうどうすることもできないくらいに膨れ上がったカルマの蓄積の為に,欲望を満たすことよりも苦しみが遙かに凌駕するようになると救いを求めるようになります.

こうしてやっと自分の愚かさに気がついた魂が、バガヴァーンに「真の救い」を求めます。苦しいときにバガヴァーンに保護を求めるのは、魂の本質です。私たちは、バガヴァーンとの永遠の絆があるからです。
すると、私たちの心臓を動かし肉体を維持してくださっているバガヴァーンが、真剣になった私たちにダルマを学ぶ機会を与えます。こうしてヴェーダやバガヴァーン由来の真正な宗教を通して、バガヴァーンの元に帰る道を歩み始めます。

私たちは無知を解決する為に、「自分はどこからやってきたのか」、「世界は何故あるのか、どのようにして存在するようになったのか」、「ブラフマンと物質の両方の源は何か」、「その根本原理と自分はどのような関係があるのか」を学ぶことが大事になってきます。
このような精神的知識を学ぶことが真の教育なのです。
ですからこの物質界を創造したバガヴァーンから精神的智識を学ばない限り、私たちはカルマを浄化することができず,従って死の世界から解放される方法を知ることができません.

ニルヴァーナ(涅槃)やムクティ(解脱)とは、単に物質の束縛から解放されること・自由になることですが、それを超えて、バガヴァーンと魂の永遠の愛をやりとりする本来の関係・サナータナ・ダルマにも戻ることが、すべての魂にとって人生の成功です.それには、絶対真理・バガヴァーンの正しい理解と悟りを得なければなりません。
人生の成功とは,人より権力や富を獲得することではありません。これらはすべて死とともに消え失せてしまいます。ですから真に知性のある人は、このような俗的な目的の為に貴重な人生を無駄にすることはありません。人生に失敗するとは、再びこの物質世界に誕生するということです。人生の成功者とは、この物質界から自由になって、父であるバガヴァーンの元に帰ることです。バガヴァーンが在すところが私たち魂の真の安住の地なのです。

以上、第6章 魂は何故物質の世界にいるのか 終了