8. カルマの法則

私たちは肉体ではありません。永遠の魂です。この理解は、自己の悟りの最初の第一歩です。そして、このような精神的知識を知ることが、真に文化的な人間生活の始まりとなります。これが、私達の人生の問題である生老病死を解決することに繋がります。ところが、精神的知識や精神的教育が無い為に、自分が肉体であるという誤った認識から、この人生の本来の神聖な目的が見失われ、動物と変わらない生き方、つまり肉体の感覚満足のために一生を送る人々が大勢います。

私たちの肉体と私たち魂の関係は、衣服とそれを纏う人に似ています。私たちは、季節に応じて或いは目的に応じて様々な衣服を纏いますね。これと同じように、私たち魂は、自然界に存在する様々な肉体という衣服を纏います。その衣服は,自分の物質的望みとカルマ(自分が成した活動の反動)に応じて「与えられたもの」です.私たちが自分で作った衣服ではありませんし、自分の好みにオーダーメイドすることもできません.これはつまり,私たち魂より高い権威が存在するということです.

物質のエネルギーはマーヤー、幻想エネルギーと呼ばれます。物質の肉体に魂が覆われていることで、私たちは「自分は肉体だ」と化かされている状態にいます。こうして私たち魂は、現在纏っている肉体を自分と同一視してしまいます。
その為、ブラフマンに関する精神的な智識を知らない世界中の多くの人々は、自分の肉体の感覚器官や心の欲求を満たすことが人生の目的になってしまうのです。美しいもの見たいという目の欲求、心地よい音楽聞いたいという耳の欲求、美味しいものを食べたいという舌の欲求、香しい匂いを嗅ぎたいという鼻の欲求、セックスをしたいという性器の欲求を満足させることで、自分は幸福になれると思い込んでいます。こうしていずれ滅びゆく運命にある一時的な物質の肉体に対して、日夜せっせと奉仕しています。この状態をゴダーサ、感覚器官の僕と言い、感覚満足という一時的な楽しみ、儚い物質的な欲望の虜になっています。

これは丁度、砂漠にいる喉の渇きに苦しむ旅人が、水のように見える蜃気楼を追って必死に歩き回っている様に似ています。この物質世界で、私達魂が求めている真の幸福や喜びはありません。何故なら私たちは肉体ではなく、肉体に住む魂だからです。ですからいくら物質の肉体の心を含めた感覚器官の欲求を満たしても、支配欲や所有欲といった物質的な欲望を満そうとしても、魂が求めている本質的な幸福は得られません。ですから魂は常に欲求不満に陥ります。「満たされた」と思いきや、いつしか魅力が薄れ、興味を失い、色褪せていきます。物質的喜びや満足や幸福感は長続きしません。一時的なのです。こうして砂漠で水を求めて彷徨う人間が、蜃気楼に化かされて水だと思いこんで、追っても追っても手に入れられないのと同じです。一時的な物質世界には実体はありません。影のようなものなのです。

そして自分の肉体の欲求を満足させたり、支配欲や所有欲という欲望を満足させる行為は、自ずと自己中心的になりがちです。そして自分中心的な行為は、往々にして他者を犠牲にしてしまいます。
私たち魂は,物質の世界で,物質の肉体を纏っています.従って,私たちの活動すべて,頭で考えたこと,言葉や文字で表わしたこと,肉体を使って行動したすべてに,反動がやってきます.自分の行為すべてに,反動がくるのです.これをカルマの法則と言います.
カルマの法則,つまり作用・反作用は,ニュートン力学の運動の第3法則として,科学でも証明されている物質の法則です.
yaya sammohito jiva atmanaṁ tri-guṇatmakam paro ‘pi manute ‘narthaṁ tat-kṛtaṁ cabhipadyate 物質エネルギーに影響され、魂は物質の3様式に超越しているにも関わらず、自分自身を物質の産物と思い込み、惨めな物質的反動で苦しむ。(バガヴァッド・プラーナ 1.7.5)

つまり,私たちは自分が中心になって自由に何でも行動できますが,その行動の責任は自分で取らなければならないのです.これがこの物質界のダルマ・ルールです.しかし私たちは魂は、現在纏っている物質の肉体を自分自身と同一視しているために、その肉体の快楽の為に宇宙の法に反した利己的な活動の反動で雁字搦めになって苦しんでいます。

人は幸福を求めています.しかし,自分自身を知らないために,このような誤った自己中心的な感覚満足の道(偽の幸福の道)が、自分を幸せに導いてくれると信じて歩を進めます。最終的にどのような人生の道を選択し歩むか,どのような生き方をするか,すべてあなた次第です.もし誤った道を選び,罪を犯したら,結局その生き方を選択したあなたの自己責任となります.
kāmamaya evāyaṃ puruṣa iti
sa yathākāmo bhavati tatkratur bhavati
yatkratur bhavati tat karma kurute
yat karma kurute tad abhisaṃpadyate
あなたは,深い望みに駆り立てられた結果だ.
あなたが望んだことが, あなたの意志になり,
あなたの意志が, あなたの行動になり,
あなたの行動が, あなたの運命となる.(ブリハダラニャコ・パニシャッド 4.4.5)

結局私たちが苦しむのは,その道を選択したあなた自身にあります。私たちの判断の一つの基準になるのが心です.そしてその心を支配するのが知性・理性です.私たちは,様々な望み,欲望があります.自分が幸福になるために,喜びや楽しみのために様々な欲望や望みを持ちます.そしてそれらを実現しようと行動(カルマ)します.でも,その望み,欲望が,合法的(人間社会の法,そして宇宙の)か否か,法に従うのか,それとも自分の欲望に従うのか,貴方次第です.ですから,心が私たちの味方にも敵にもなります.
ヨーガや様々な宗教的修行法はすべて,この心を支配することにあります.
uddhared ātmanātmānaṁ nātmānam avasādayet
ātmaiva hy ātmano bandhur ātmaiva ripur ātmanaḥ
人は心によって自分を高めるべきで,堕落させるべきではない.心は物質界に縛り付けられた魂たちの友であり,同時に敵でもある.(バガヴァッド・ギーター 6.5)

私たち魂は、この物質界を幸福を求めて歩く旅人のようです。私たちが歩いていく・生きていく先々には、毎瞬間、無数の道が現れます。どの道を選択するかは貴方次第です。私たちの人生には無数の道があります。その無数の道の中に、貴方の人生の問題を解決し同時に真の幸福に導く解放への道、バガヴァーンが導く正道・ダルマがあります。しかしその道は、精神的知識という目が開けないと、精神的な啓蒙や教育がないと、その道を正しく認識できません。

一方,私たちの人生行路には, 善人のフリした沢山の詐欺師が,あなたから何かを盗んだり,あなたを利用したり,あなたを陥れたりしようと,罠を掛けて自分の思った方向にあなた導こうとします.そして私たちに、「この道を行くとあなたは幸福になりまよ」と声をかけてきます。すると私たちの心がそれぞれの呼び子の宣伝に反応して、毎瞬間様々な道を選択します。選択の基準となる「自分が肉体ではなくブラフマンである」というような精神的智識がないと、何が本当に自分の為になる道なのか分かりません。精神的智識が不足している人々は、一時の快楽の道を選択します。例えば、美味しそうな肉や魚料理を食べたり、高級ワインやウィスキーを飲んだり、美男美女と一夜の快楽に溺れたり,また政治的・経済的・宗教的な手段を通してより大きな支配力や財力を獲得しようとします.

バガヴァーンが示された正道以外の道はすべて、俗的な人間が自分や自分たちの欲望を満足させるために作られた偽のダルマです。多くの人々は、一時感覚満足という快楽をすぐに得られるこのような安直な道を選んでしまいます。
これは自分が肉体だと思い込んでいるためにこのような選択をします。
これらの選択は、自分が獲得し理解した様々な種類の知識(情報)によって養われた理性(知性)と心の中にある様々な種類の欲望と、良心のせめぎ合いの中で決まります。
従って,私たちが宇宙の法であるダルマについて無知でいることは,誤った行動や罪を犯すことになり,その結果自分に苦しみを招来することになります.勿論,このような誤った道に導いた首謀者やその協力者や関係者は,最も重い罪に科せられますが,私たちは,自分の真の利益の為に/自分の真の幸福の為に、バガヴァーンに由来する精神的智識を学ばなくはなりません.

以上、第8章 カルマの法則 終了